After the Music Video

あの日の私へ

藍咲ロゼ Public Origin Essay

これは、藍咲ロゼの始まりの物語。

私はまだ蕾だから

夜のベンチ

青いバラを初めて見た日を今でも覚えている。

あの夜、私は公園のベンチに座っていた。夜というには少し明るくて、でも朝にはまだ遠い時間だった。街灯の下に落ちた葉っぱが、風もないのに少しだけ揺れて見えた。たぶん、私の目が揺れていたんだと思う。

スマホの画面は暗くなっていて、膝の上でただの黒い板みたいになっていた。何かを調べようとしていたはずなのに、何を知りたかったのかも忘れていた。これからどうしたらいいのか。私は何がしたいのか。そもそも、まだ何かをしたいと思っているのか。 答えは、何も出なかった。 答えがない、というより、答えを探す私自身が、もう薄くなっていた。頭の中には、これから先の時間が一本も伸びていなかった。二十二歳の私も、二十三歳の私も、どこにも見えなかった。来週のシフトだけがあって、来月の家賃だけがあって、その先には、同じ朝がずっと並んでいるだけだった。 悲しい、という言葉なら、まだ形があったと思う。あの頃の私は、悲しいよりも空っぽだった。何かを欲しがる力も、悔しがる力も、誰かを責める力も、少しずつ削れていた。胸の奥にあったはずの熱は、燃え尽きたあとに残る灰みたいに冷たくなっていた。 そのころの私は、毎日を生きているというより、ただ同じ場所をぐるぐる歩いているみたいだった。朝が来て、アルバイトに行って、帰ってきて、眠って、また朝が来る。誰かに説明すれば普通の生活に聞こえるのかもしれない。でも私の中では、その全部が、少しずつ色を失っていた。 小さな白い部屋に帰るたび、私は日記を開いた。昔から、言葉にすれば何かが残る気がしていたから。机の引き出しには、押し花のしおりが挟まった古い日記があった。いつからそこにあるのか、もうはっきり覚えていない。ページを開くと、昔の私の字が残っていた。今より少しだけ丸くて、今よりずっと信じる力が強い字だった。 その字を見るのが、つらかった。

届かなかった歌

高校生の時、私は同級生とバンドを組んでいた。四人組で私はその時からボーカルだった。 最初は、放課後の教室や、狭いスタジオで音を出すだけで楽しかった。アンプの電源を入れた時の小さなノイズ。ドラムのカウント。ギターの一音目。ベースが入って、私が息を吸って、声を出す。全部が、自分たちだけの未来につながっている気がした。 私たちは本気で武道館を目指していた。 今思うと、笑われても仕方ないくらい大きな夢だったのかもしれない。でもあの時は、本気だった。冗談でも、ノリでも、青春の記念でもなかった。いつかあの丸い屋根の下で、自分たちの曲を鳴らす。その景色を、私は何度も想像していた。 ステージの上でライトを浴びること。客席の奥まで声を届けること。知らない誰かが、私たちの曲を覚えてくれること。最後の曲で、みんなが一緒に手を上げてくれること。 そういう夢は、胸の中に置いておくだけで熱かった。 高校を卒業したあと、私は大学へは行かなかった。周りの友達が入学式の写真を上げている頃、私はアルバイトのシフト表を見ていた。後悔していなかった、と言えば嘘になる。でも、それでもいいと思っていた。普通の道を選ばなかった分だけ、夢に近づけるはずだと思っていたから。 四人でバンドを続けた。昼は働いて、夜は練習して、帰ってから曲のことを考えた。眠い日もあった。体が重い日もあった。お金のことを考えたくない日もあった。それでも、これが夢に向かっている時間なんだと思えば、耐えられる気がした。 でも、夢は、思っていたよりずっと遠かった。 最初の頃は、反応が少なくても笑っていられた。まだ始まったばかりだから。まだ知られていないだけだから。そう言い合うことができた。ライブのあとに誰かが一言だけ「よかったです」と言ってくれた日には、帰り道で何度もその言葉を思い出した。たった一人でも届いたなら、次も頑張れると思えた。 でも、その一人を増やすことが、思っていたよりずっと難しかった。 動画を上げても、再生数はほとんど動かなかった。告知をしても、反応は全くなかった。ライブハウスの楽屋で、他のバンドの笑い声を聞きながら、私は何度もスマホを見た。更新しても、数字は変わらなかった。変わらない数字を見ていると、自分の声まで変わらないものに思えた。 歌うことだけは好きだった。マイクを握っている間だけは、まだ夢の中にいられた。けれどステージを降りた瞬間、現実が戻ってきた。交通費、スタジオ代、チケット代、シフト、寝不足、伸びない数字。夢に必要なものが、夢以外の全部を削っていくようだった。 曲を出しても、ほとんど届かなかった。ライブをしても、思ったように人が増えなかった。数字を見るたび、胸の奥が冷たくなった。次こそは。次の曲なら。次のライブなら。そう言いながら、私たちは少しずつ疲れていった。 焦りは、人を優しくなくする。 最初は小さなすれ違いだった。練習時間のこと。お金のこと。曲の方向性のこと。誰が本気で、誰が本気じゃないのか、そんな言葉まで出るようになった。言わなくていいことを言った日もある。言われた言葉を、何日も忘れられなかった日もある。 誰か一人が悪かったわけじゃないと思う。今なら、そう思える。みんな必死だった。みんな怖かった。夢が大きすぎて、現実が小さく見えて、でもその小さな現実に毎日足を取られていた。 それでも、終わる時は終わる。 バンドは解散した。 その言葉は、とても短かった。たったそれだけで、あんなにたくさんあったはずの未来が、急に見えなくなった。 武道館へ行く夢も、そこで歌う私も、メンバーと笑い合っている未来も、全部なくなったように感じた。それなのに、夢のために選ばなかったもの、諦めたもの、犠牲にした時間だけが、私の手元に残った。 大学へ行かなかったこと。普通の青春を横目で見ていたこと。安心を後回しにしたこと。迷っても、夢があるから大丈夫だと言い聞かせてきたこと。 夢が消えたあと、それらは全部、ただの代償になった。 それからしばらく、私は音楽を聴くのが少し怖くなった。 好きな曲を流すと、昔のスタジオの匂いを思い出した。スピーカーから出る音の圧、マイクを握った手の汗、歌い終わったあとにメンバーと顔を見合わせた瞬間。あんなに大事だったものが、思い出すたびに胸を刺すものに変わっていた。 日記には、何も書けない日が増えた。書いても、同じような言葉ばかりだった。 今日も何も変わらなかった。 今日も歌わなかった。 今日も、昔の私に顔向けできなかった。 そんな短い言葉だけが、白いページに残っていった。押し花のしおりだけが、昔と同じようにそこにあった。乾いて、薄くなって、でも形だけは残っている花。まるで、終わった夢の標本みたいだった。 周りのみんなは、楽しそうだった。大学の話、サークルの話、就活の話、旅行の話。私だって、それぞれが頑張っていることくらい分かっていた。分かっていたのに、まぶしかった。 私は何をしているんだろう。 ただのフリーターで、夢もなくて、何者にもなれなくて。昔の私は、あんなに大きな声で歌っていたのに。あんなに信じていたのに。 白い部屋で日記を開くと、そこには「武道館」と書いたページが何度もあった。字の横に、小さな星みたいな印をつけていた。押し花のしおりが、そのページに挟まっていたこともある。どうしてそんなことをしたのか、昔の私に聞いてみたかった。 「ねえ、あなたは本当に信じていたの。」 「その夢は、そんなにきれいなものだったの。」 そう聞いても、紙の上の私は何も答えてくれなかった。

流れ星の先

あの夜の公園で、私はたぶん、人生の一番低い場所にいた。 続ける理由が分からなかった。けれど、終わらせることを選べたわけでもなかった。ただ、どちらにも進めないまま、ベンチの上で時間だけが過ぎていった。自分の人生なのに、もう自分の手に負えないものになっていた。 怖かった。 終わることも怖かったし、終わらずに明日が来ることも怖かった。朝になればまた同じ部屋に帰って、同じ服を着て、同じシフトに向かって、同じように何も変わらない一日をやり過ごす。その繰り返しの中で、私は少しずつ自分の輪郭を失っていく気がした。 誰かに助けてと言えばよかったのかもしれない。でも、何をどう助けてほしいのかも分からなかった。夢を返してほしいのか。過去に戻してほしいのか。普通の人生を選べなかった自分を許してほしいのか。どれも違う気がしたし、どれも本当のような気がした。 情けないと思った。 たった一度、夢が壊れただけで。たった一度、届かなかっただけで。私は自分の全部まで、終わったことにしようとしていた。 でも、それは「たった一度」と言えるほど軽くなかった。私にとっては、人生の中心を丸ごと失うことだった。夢が壊れたあと、何を大事にして生きればいいのか分からなかった。夢を追っていた私がいなくなったら、そこに残る私は誰なのかも分からなかった。 その夜、本当に分からなかった。どうやって朝を待てばいいのか。明日になったら何をすればいいのか。私はまだ音楽が好きなのか。それとも、好きだったものまで嫌いになってしまったのか。 ふと空を見上げた。 大きな流れ星が見えた。 一瞬だった。願いごとを三回言う時間なんてなかった。ただ、暗い空を切るように光が走って、消えた。私はしばらく、その消えた場所を見ていた。胸の奥で、何かが小さく音を立てた気がした。 今日は流れ星が見える日なのかな。 そんなことを思って、私はスマホを開いた。さっきまで黒い板みたいだった画面が、急にまぶしく感じた。検索しようとして、言葉を打って、いくつかの記事を見て、気づいたら全然違う場所にたどり着いていた。 それは、ある配信だった。 画面の中のその人は、楽しそうだった。楽しそう、という言葉だけでは足りないくらい、そこにいることを自分で選んでいる人に見えた。笑って、話して、時々まっすぐなことを言って、少しふざけて、また笑った。 かっこよかった。 私は公園のベンチで、イヤホンもつけずに、音量を小さくしてその配信を見ていた。最初は少しだけのつもりだった。なのに、気づいたら一時間くらい経っていた。 その人の言葉に、特別な魔法があったのかは分からない。ただ、画面の向こうにいるその人は、ちゃんと今を生きているように見えた。自分の場所を、自分で作っているように見えた。 配信の終わりに、その人が音楽もやっていることを知った。アーティストとして活動していることを知った。 気になって、MVを開いた。

青いバラが咲いた瞬間

最初の音が鳴った瞬間、胸が痛くなった。 画面の中には、私が失くしたと思っていたものがあった。夢を何度も諦めそうになって、それでも手を離さなかった人の声があった。きれいなだけじゃない光があった。傷があるのに、それでも前へ進む背中があった。 涙が止まらなかった。 本当に、止まらなかった。 公園のベンチで泣くなんて、恥ずかしいと思う余裕もなかった。息がうまくできなくて、画面がにじんで、何度も袖で目を拭いた。それでも見たかった。見届けたかった。 そのMVの中で、青いバラが花開いた。 青いバラ。 ありえないもの。ずっと不可能だと言われていたもの。けれど今は、夢が叶うという意味を持つ花。不可能だったものが、叶うものに変わった花。 私は、その花から目を離せなかった。 どうしてだろう。たった一つの花なのに。画面の中の演出なのに。私は、その青い色に救われた気がした。 不可能だったものが、叶うものに変わる。 そんなこと、本当にあるのかな。 私の夢は、もう終わったと思っていた。武道館なんて、もう二度と口にしてはいけない言葉みたいになっていた。あれだけ本気で目指して、届かなくて、壊れて、みんなで続けられなくなった夢だから。 でも、MVの中で青いバラが咲いていた。 その人は、きっと何度も諦めそうになったのだと思う。私が知らない夜があったのだと思う。それでも、その人は今、画面の向こうで花開いていた。楽しそうに笑って、かっこよく歌って、誰かの心を動かしていた。 私は、どうして一度の挫折で、夢だけじゃなくて、自分まで終わったことにしようとしていたんだろう。 そう思った。 さっきまで、私は自分の人生を閉じる理由ばかり探していた。けれどその時だけは、ほんの少しだけ、続ける理由を探していた。息をするのが苦しいほど泣いているのに、胸の奥のどこかが、もう一度だけ生きる方へ向き直っていた。 その瞬間、はっきり分かった。 私は、まだ音楽が好きだった。 嫌いになんてなっていなかった。怖くなっただけだった。届かないことが怖くて、笑われることが怖くて、また失うことが怖くて、好きだったものを遠ざけていただけだった。 武道館で歌いたいという夢も、消えていなかった。 奥の方に沈んでいただけだった。見ないふりをしていただけだった。もう無理だと決めつけて、傷つかないように、触らないようにしていただけだった。 私は、また歌いたい。 誰かに届く歌を歌いたい。 あの人が私にくれたみたいに、私もいつか、誰かがもう一日を続ける理由になれる歌を歌いたい。 そしていつか、武道館でライブをしたい。 その夢がどれだけ遠くても、もう一度だけ、ちゃんと持っていたい。いつか、生きる希望をくれたあの人に直接会って、お礼を言いたい。あなたの歌で、あなたのMVで、あなたの青いバラで、私はもう一度立ち上がれましたと伝えたい。

ここから咲けるよ

そう思った時、私は初めて、自分のことを青いバラに重ねた。 今の私は、まだ花じゃない。咲いてなんかいない。誰かに見せられるほどきれいなものでもない。 あの頃の夢は、一度折れた茎の先で、土の上に落ちてしまった蕾みたいだった。 落ちた蕾は、もう咲けない。 それは、たぶん本当だ。どれだけ願っても、あの頃の夢を、あの頃の形のまま咲かせることはできない。 でも、全部が枯れたわけじゃないなら。 折れた場所の奥に、まだほんの少しでも青い光が残っているなら。 そこから、もう一度、小さな蕾が生まれるかもしれない。 普通に咲くより、きっと難しい。時間もかかる。怖さだって残る。 それでも。 その蕾が、まだ咲く前なら。 ここから咲けるかもしれない。 その考えは、強い決意というより、消えそうな火を両手で囲うみたいなものだった。少し風が吹けば、また消えてしまうかもしれない。明日になったら、やっぱり無理だと思うかもしれない。それでも、その夜の私には、それで十分だった。完璧な勇気じゃなくていい。震えていてもいい。ほんの少しでも、まだ歌いたいと思えたなら、それはもう終わりじゃない。 私は、その小さな火を消したくなかった。 私はスマホを握りしめた。画面の中では、MVが終わって、再生ボタンが小さく光っていた。頬はまだ濡れていた。 もし誰かに見られていたら、きっとごまかせなかったと思う。たぶん、笑いながら「花粉かな」なんて、全然季節じゃない言い訳をしていたと思う。 そんなくだらないことを考えられた自分に、少しだけ驚いた。 夜の公園は相変わらず静かで、遠くの車の音だけが聞こえた。 私は空を見上げた。 もう一度、大きな流れ星が見えた。 今度も、願いごとを三回言う時間なんてなかった。 少しだけ笑った。こういう時まで、私は間に合わないんだなと思った。 だけど、言葉はちゃんと胸の中にあった。 もう一度、歌いたい。 もう一度、夢を持ちたい。 不可能だったものを、叶うものに変えたい。 その日から、青いバラは私にとって、ただの花じゃなくなった。きれいなモチーフでも、飾りでもなくなった。あの夜、私がもう一度音楽へ戻るために見つけた、小さな約束になった。 私はまだ蕾だ。 一度折れた場所から、もう一度生まれようとしている、小さな蕾だ。 誰かに見つけてもらえるほど大きく咲いているわけじゃない。胸を張って、何かを成し遂げたと言えるわけでもない。 でも、もう一度歌うと決めた。 画面の向こうからでもいい。小さな投稿からでもいい。最初は誰にも届かないかもしれない。数字を見て落ち込む日もあると思う。昔のことを思い出して、また怖くなる日もあると思う。 それでも、歌う。 あの夜、私が画面の向こうの歌に救われたように、いつか私の歌も誰かに届くかもしれないから。 不可能だった青いバラが咲いたように、届かなかった夢も、いつか形を変えて咲くかもしれないから。 いつかライブ会場で、私の歌を鳴らしたい。 いつか武道館で、まだ蕾だった私がここまで来たよって、ちゃんと歌いたい。 でも、その日だけを見てほしいわけじゃない。 届かない日も、迷う日も、また怖くなる日もあると思う。それでも歌うと決めた私を、できればここから見ていてほしい。 そして、あの夜の私みたいに、もう進めないと思っている誰かに言いたい。 「大丈夫だよ。ここから咲けるよ。」って。 咲けなかった過去は、ここから咲けない証拠じゃない。 あの夜に見た青い光を、もう二度と見失わないように。 ここから、ちゃんと咲いてみせる。

この曲は、この物語から始まっています

このエッセイは、藍咲ロゼがもう一度歌うと決めた夜の物語です。
MVを見たあとに読んでほしい、もうひとつの始まり。
あなたの心にもそっと、青い光が届きますように。